京都府 ・ 本願寺「歴史ロマンに大興奮の巻き」
如意寺で目一杯の癒しを頂き、この日の最終目的地となった本願寺へと向かいました。


本願寺。
聖武天皇が大仏様を建立された奈良時代 天平2年(730年)に、諸国行脚されていた行基菩薩がこの久美浜の地で一本の大樹に群集している鴫(シギ)が
たちまち仏の姿となり経文を唱えながら西の空へ飛び去っていくのを見て深く感じ入り一寺を建立されたのが起こりとされています。
このことからシギサン(信貴山)とされ法相宗 帰命院・本願寺と名付けられたそうです。
しかし280年を経るうちに寺坊は荒れ果ててしまいます。
そんな折、比叡山の高僧・恵心僧都が天橋立にある文殊堂に泊まられた夜、夢に行基菩薩が現れ「私が久美の地に開いた霊地が今荒れているので、これを興隆し仏法の興隆を図って欲しい」と告げられた。
恵心僧都は驚いて本願寺を訪れ大修理を行い復興をなされました。
それ以降、188年間は天台宗の寺として続くことになります。
その後、源頼朝が鎌倉幕府を開いた1192年(現在の教科書は1192年ではないんですよね?(^^; )、浄土宗の開祖・法然上人が久美の城主・伊賀氏の願いによって当山に来られ、ひと夏を過ごされる。
先帝・後白河法皇の寵愛を受けていた伊賀守は法然に追善供養を願ったのです。
このとき、みな法然の教えに帰依したので今日まで浄土宗の信仰を守っているそうです。
また、但馬・丹後の浄土宗の発祥の地の役割を担う寺にもなりました。
どうですか?
各時代の高僧が名を連ねる寺伝。
このお話を聞くだけでも胸がドキドキしてしまい高揚するでしょう。
そして過去には信憑性がないと言われたこの寺伝も近年、大寺院の書物と符合する点が数多く確認され俄然 真実味を帯び、もはや伝承ではなく事実としてこの地に起こった歴史であろうとされています。
そしてその最たる例はご本尊 阿弥陀如来立像。
後白河法皇の追善供養に造られた阿弥陀如来立像2体の内の1体とされ作風は鎌倉期京仏師の作でありその寺伝に真実味を与える。
また他の文書からも後白河法皇追善供養の阿弥陀が久美浜にもたらされたとの記述があるそうです。
そして境内にある勅使門。
後白河法皇の追悼供養を行った際に後鳥羽天皇の勅使を迎えるために建てられたといわれ鎌倉時代初期の建築様式を伝える貴重な建築物として今もなお現存しています。
また、恵心僧都滞在のおり、千体仏の安置を進められ2000体の仏様が祀られたといわれ、本堂内陣には「命乞いの仏様」「安全・守護の仏様」として信仰を集めた、千体仏が今もなをお祀りされています。
鳥取城主が建てた鳥取市の本願寺は仏様への御礼だと伝えられ、久美浜の本願寺 栄誉上人を
開山上人としてお招きし後白河法皇の追善仏であった2体の阿弥陀如来立像のうちの1体をご本尊としてお祀りしているそうです。
寺伝がどんどん繋がっていくんですね。
歴史ロマンが広がりますねぇ。
ご住職のお話にグイグイと引き込まれてしまいました。
そしていよいよ諸仏拝観へ。

まずはご本尊 阿弥陀如来立像。
像高97.9cm。いわゆる三尺の弥陀ですが、作風は快慶のそれではなくもう少しふくよかで張りに満ちている感じです。
衣文線は太目な感じで流れ鎌倉期ながらも平安期の様相も伺えるような気もします。
太もも周りの量感は豊かでお顔も丸く美しく立派な京仏って感じですよね。
見えにくいですが脇には観音勢至 両菩薩がいらっしゃり来迎の形式をとられています。
それもそうですよね、後白河法王の追善供養の阿弥陀様ですから来迎像であるのが最も適した形でしょう。

阿弥陀如来立像 府指定文化財 像高97.9cm 鎌倉初期 桧財 寄木造り
さて、須弥壇厨子の裏にも多くの仏像が祀られています。
もともとどちらにいらっしゃったのかは不明ですが、おそらく栄えていた当時のお堂ないしは寺院にいらっしゃった仏像が現在はこのお堂に集まっているのではないでしょうか。
その中に一際引きつける仏像が。
元々は秘仏となり厨子の扉は閉じられていたそうですが、あるおりに拝観に訪れられた方が「扉を開けてくれと言うてはる」と仰られたそうです。
邪な僕はただその人が秘仏見たかっただけちゃうん?と思ったことは秘密にしておいて、ご住職はそのなにやら霊験あらたかな参拝者の言うことも尤もかな?いつまでも暗いお厨子の中で誰にも見てもらえずにいるのもどうなのか?と考えられお厨子の扉を開けることにしたそうです。
ビバ!霊験あらたかな人!
そこにいらっしゃったのは多聞天像と増長天?持国天?の二天像と上人像でした。
その二天像の素晴らしさに僕は頭がクラクラとなってしまいました。
特に多聞天像の格好良さは素晴らしく、腰のひねりからニヒルに笑みを浮かべる尊容と鎌倉期慶派の息吹さえ感じるような あまりにもカッコイイ方でした。
ご住職と共にカッコイイカッコイイを連呼し見入りまくる僕。
須弥壇の裏手ということもあり光力が少なくやや見えづらい面もあるのですがそれでも伝わる圧倒的なかっこよさがありました。
大興奮で心臓がバクバクしっぱなし。
いや~素晴らしい方とお会いした。
京丹後市久美浜は現仕事現場の近く。
これは仕事の合間にも再訪してしまいそうです。



阿弥陀如来坐像に阿弥陀如来立像
金箔の新しい立像も近年の像ではなく古仏


分かりにくいですが恐らくは善導大師ではなかろうかとのこと
神像の様に両の手を袖口へ隠すお姿

地方色あふれる古仏
十一面観音か聖観音か

この時期の雪対策によりシートに被われる重要文化財 一重入母屋造檜皮葺の本堂 鎌倉期

後鳥羽天皇の勅使を迎えた勅使門 京丹後市指定文化財 鎌倉初期


今なお残る歴史の思いを感じずにはいられない千体仏

柱の面取り(四角ではなく角にやや広く平面がある(八角形)、説明伝わるかな?(^^; )から鎌倉時代と推定される

本願寺は本来、法然上人二十五霊場の二十番札所として定められていたが、正式に制定される際に除外されてしまう。
おそらく理由は遠すぎるためではないかとご住職が仰られていました。
しかし、紛れもない証として二十番札所の額が残る

御朱印はもちろん圓光大師
霊鴫(信貴)山 本願寺(ほんがんじ)
京都府京丹後市久美浜町1
TEL : 0772-82-0154
拝観 : 要予約
拝観料 : 志納
駐車場 : 有り
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本願寺。
聖武天皇が大仏様を建立された奈良時代 天平2年(730年)に、諸国行脚されていた行基菩薩がこの久美浜の地で一本の大樹に群集している鴫(シギ)が
たちまち仏の姿となり経文を唱えながら西の空へ飛び去っていくのを見て深く感じ入り一寺を建立されたのが起こりとされています。
このことからシギサン(信貴山)とされ法相宗 帰命院・本願寺と名付けられたそうです。
しかし280年を経るうちに寺坊は荒れ果ててしまいます。
そんな折、比叡山の高僧・恵心僧都が天橋立にある文殊堂に泊まられた夜、夢に行基菩薩が現れ「私が久美の地に開いた霊地が今荒れているので、これを興隆し仏法の興隆を図って欲しい」と告げられた。
恵心僧都は驚いて本願寺を訪れ大修理を行い復興をなされました。
それ以降、188年間は天台宗の寺として続くことになります。
その後、源頼朝が鎌倉幕府を開いた1192年(現在の教科書は1192年ではないんですよね?(^^; )、浄土宗の開祖・法然上人が久美の城主・伊賀氏の願いによって当山に来られ、ひと夏を過ごされる。
先帝・後白河法皇の寵愛を受けていた伊賀守は法然に追善供養を願ったのです。
このとき、みな法然の教えに帰依したので今日まで浄土宗の信仰を守っているそうです。
また、但馬・丹後の浄土宗の発祥の地の役割を担う寺にもなりました。
どうですか?
各時代の高僧が名を連ねる寺伝。
このお話を聞くだけでも胸がドキドキしてしまい高揚するでしょう。
そして過去には信憑性がないと言われたこの寺伝も近年、大寺院の書物と符合する点が数多く確認され俄然 真実味を帯び、もはや伝承ではなく事実としてこの地に起こった歴史であろうとされています。
そしてその最たる例はご本尊 阿弥陀如来立像。
後白河法皇の追善供養に造られた阿弥陀如来立像2体の内の1体とされ作風は鎌倉期京仏師の作でありその寺伝に真実味を与える。
また他の文書からも後白河法皇追善供養の阿弥陀が久美浜にもたらされたとの記述があるそうです。
そして境内にある勅使門。
後白河法皇の追悼供養を行った際に後鳥羽天皇の勅使を迎えるために建てられたといわれ鎌倉時代初期の建築様式を伝える貴重な建築物として今もなお現存しています。
また、恵心僧都滞在のおり、千体仏の安置を進められ2000体の仏様が祀られたといわれ、本堂内陣には「命乞いの仏様」「安全・守護の仏様」として信仰を集めた、千体仏が今もなをお祀りされています。
鳥取城主が建てた鳥取市の本願寺は仏様への御礼だと伝えられ、久美浜の本願寺 栄誉上人を
開山上人としてお招きし後白河法皇の追善仏であった2体の阿弥陀如来立像のうちの1体をご本尊としてお祀りしているそうです。
寺伝がどんどん繋がっていくんですね。
歴史ロマンが広がりますねぇ。
ご住職のお話にグイグイと引き込まれてしまいました。
そしていよいよ諸仏拝観へ。

まずはご本尊 阿弥陀如来立像。
像高97.9cm。いわゆる三尺の弥陀ですが、作風は快慶のそれではなくもう少しふくよかで張りに満ちている感じです。
衣文線は太目な感じで流れ鎌倉期ながらも平安期の様相も伺えるような気もします。
太もも周りの量感は豊かでお顔も丸く美しく立派な京仏って感じですよね。
見えにくいですが脇には観音勢至 両菩薩がいらっしゃり来迎の形式をとられています。
それもそうですよね、後白河法王の追善供養の阿弥陀様ですから来迎像であるのが最も適した形でしょう。

阿弥陀如来立像 府指定文化財 像高97.9cm 鎌倉初期 桧財 寄木造り
さて、須弥壇厨子の裏にも多くの仏像が祀られています。
もともとどちらにいらっしゃったのかは不明ですが、おそらく栄えていた当時のお堂ないしは寺院にいらっしゃった仏像が現在はこのお堂に集まっているのではないでしょうか。
その中に一際引きつける仏像が。
元々は秘仏となり厨子の扉は閉じられていたそうですが、あるおりに拝観に訪れられた方が「扉を開けてくれと言うてはる」と仰られたそうです。
邪な僕はただその人が秘仏見たかっただけちゃうん?と思ったことは秘密にしておいて、ご住職はそのなにやら霊験あらたかな参拝者の言うことも尤もかな?いつまでも暗いお厨子の中で誰にも見てもらえずにいるのもどうなのか?と考えられお厨子の扉を開けることにしたそうです。
ビバ!霊験あらたかな人!
そこにいらっしゃったのは多聞天像と増長天?持国天?の二天像と上人像でした。
その二天像の素晴らしさに僕は頭がクラクラとなってしまいました。
特に多聞天像の格好良さは素晴らしく、腰のひねりからニヒルに笑みを浮かべる尊容と鎌倉期慶派の息吹さえ感じるような あまりにもカッコイイ方でした。
ご住職と共にカッコイイカッコイイを連呼し見入りまくる僕。
須弥壇の裏手ということもあり光力が少なくやや見えづらい面もあるのですがそれでも伝わる圧倒的なかっこよさがありました。
大興奮で心臓がバクバクしっぱなし。
いや~素晴らしい方とお会いした。
京丹後市久美浜は現仕事現場の近く。
これは仕事の合間にも再訪してしまいそうです。



阿弥陀如来坐像に阿弥陀如来立像
金箔の新しい立像も近年の像ではなく古仏


分かりにくいですが恐らくは善導大師ではなかろうかとのこと
神像の様に両の手を袖口へ隠すお姿

地方色あふれる古仏
十一面観音か聖観音か

この時期の雪対策によりシートに被われる重要文化財 一重入母屋造檜皮葺の本堂 鎌倉期

後鳥羽天皇の勅使を迎えた勅使門 京丹後市指定文化財 鎌倉初期


今なお残る歴史の思いを感じずにはいられない千体仏

柱の面取り(四角ではなく角にやや広く平面がある(八角形)、説明伝わるかな?(^^; )から鎌倉時代と推定される

本願寺は本来、法然上人二十五霊場の二十番札所として定められていたが、正式に制定される際に除外されてしまう。
おそらく理由は遠すぎるためではないかとご住職が仰られていました。
しかし、紛れもない証として二十番札所の額が残る

御朱印はもちろん圓光大師
霊鴫(信貴)山 本願寺(ほんがんじ)
京都府京丹後市久美浜町1
TEL : 0772-82-0154
拝観 : 要予約
拝観料 : 志納
駐車場 : 有り
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この記事へのコメント
ソゾタケさんこんにちわ( ´ ▽ ` )ノ
多聞天像カッコいいでしょ〜
たまりませんでしたよ!
僕のダメダメな写真ではあの格好良さは伝わりきれてないので、ぜひ訪れてソゾタケさんの写真で仏像ファンの方々に届けてあげてください( ̄^ ̄)ゞ
今の仕事現場が丹後方面なんで参考にして頂ける様に下調べをしておきます( ̄^ ̄)ゞ
多聞天像カッコいいでしょ〜
たまりませんでしたよ!
僕のダメダメな写真ではあの格好良さは伝わりきれてないので、ぜひ訪れてソゾタケさんの写真で仏像ファンの方々に届けてあげてください( ̄^ ̄)ゞ
今の仕事現場が丹後方面なんで参考にして頂ける様に下調べをしておきます( ̄^ ̄)ゞ
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URL :
- ソゾタケ - 2014年02月19日 13:08:41
阿弥陀さん堂々たる雰囲気で素晴らしいですね。そして毘沙門天、なんというニヒルな!格好良すぎですね。来年くらいには福井から若狭、丹後あたりと巡ろうかなと思っているので、参考にさせていただきます^^